やられたらやり返す

親も、人間だ。

僕は両親が離婚した十歳の時にこれに気づき、以降、親の誰かが目の背けたくなるような滅茶苦茶を起こすたび、この言葉を自らに言い聞かせてきた。

例えば、母親が不倫していることを知った時とか、義理の父親がダイヤルQ2で高額になった電話代の犯人を僕に仕立て上げた時とか、実の父親が再婚相手と結託して僕を家から追い出してきた時とか、マトモに受け取ったら精神崩壊必至みたいな状況のなかで、この「親は人間」という呪文は、本当に魔法みたいによく効いて、僕の精神的ダメージを幾分和らげた。

しかし三十歳になり、自分に子どもはいないが同年代の人々がポンポン出産をして、大事そうに子供と接している様子をSNS等で見ていると、実は今までの僕は大変な勘違いをしていたんだと思うようになった。

幸せそうにしている家庭の親はどう見ても、人間である前に親なのだ。自分の本来の欲望や願望は二の次にして、自分の子どものために働いて、自分の子どものために飯を作って、自分の子どものためにいろいろなところへ出かけて、自分の子どもを育てるために自分を育てている。

これは語弊でも差別でもなく、また批判でもない。子どもの目線から見た、非常なる羨望だ。しかし、よく考えれば(よく考えなくても)、そんなことはすぐにわかることだ。日頃ニヒリストぶって「性行為はただの人間の本能」などと豪語してしまう恥ずかしいボクちゃんだが、まさにそれと同じく、子どもを産みたいだとか、子どもを可愛がりたいとかいう気持ちも、言うなれば人間の本能なのだ。

だからこそ、僕を取り囲んできた「親らしき人々」は、父方も母方もそんな人間の本能を無視した呪いの欠陥家系なのだと思うし、そのハイブリッドである僕であるから、子どもなんていらないと思ってしまうのも無理はない。

親は、人間であってはいけない。

今の僕はそう思うことで、過去にいた「親のような立場の人たち」への憎悪を膨らませている。そして憎悪を膨らませることは、決して、悪いことじゃない。ただただ、僕は僕を守ろうといつだって必死なのだ。

 

去年挙げた結婚パーティーに、驚くことに実の父母が揃って来る事になった。その中で僕は「母親は人間であってはいけない」話をして、母に恥をかかせたいと思い、わざわざ原稿まで用意した。

しかしそんなクソみたいな母のために、わざわざ出向いてくれたツイッターの友達や会社の人たちを巻き込むのは大人気ないなと気づいて「辛いことがたくさんあったし、母は今でも苦手ですが、親も人間だと思うと許すことができました」という、僕の中ではちょっとだけ古い感覚で、具体的な出来事を曖昧に表現しながら、ぶっつけで話した。

このスピーチをした時、僕はかなり久しぶりに母親の目を見た。僕の言葉の棘が刺さった母は泣いた。周囲は感動の涙だと思っただろう。

しかし違う。僕が本当に言いたいことが伝わって、しんどくなって泣いたのだ。本当バカ女だ。それで、そんなめでたいであろう席で、本来は感動を誘う親への手紙のシーンで、僕は母親のそんなリアクションを見て、こう思った。

 

ざま〜〜〜みろバ〜〜〜カ!!!!!!!!

 

稚拙だろ。子供染みてるだろ。いいんだよ、だって、僕はあいつの子供だから。僕だって、子供の頃は虐待されようがなんだろうが、母のことを好きだった。とても大好きだった。そんな子供の僕をたくさん裏切って、ひどいことをし続けてきたのは母親だ。正直言って、僕も仕返しをしないと気が済まない。

時間を重ねるごとにどんどん母を嫌いになってくけど、絶対に縁を切ることはしない。何をしても「私の子供だから、仕方ない」って思ってほしい。 今は思ってもらえなくて距離を置かれてるけど、死ぬ間際に後悔してほしい。目一杯後悔しろ。

僕は人間である前に、子供でいたい。

そんで、子供だって、人間なのだ。

愚かな事に、そういうやり方でしか、僕は僕を守ってあげることができない。

 

追伸

結婚パーティーに来てくれた方がこの記事を読んで、嫌な気持ちになってしまったら本当に申し訳ありません。ここにお詫びいたします。