ティーリケ著 主の祈り〜天にましますわれらの父よ〜

主の祈り

天にまします我らの父よ。
願わくは御名(みな)をあがめさせたまえ。
御国(みくに)を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用(にちよう)の糧(かて)を
今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦(ゆる)すごとく、 
我らの罪をも赦したまえ。
我らを試(こころ)みにあわせず、
悪より救いいだしたまえ。
国と力と栄えとは、
限りなく汝(なんじ)のものなればなり。
アーメン。

 

1962年発行、ティーリケ著『主の祈り』は、この短く、そしてよく使用するお祈りの言葉においての解説書だ。

今日は最初の一文、「天にましますわれらの父よ」の部から引用してこの記事を書く。

先日まで通っていたカトリック教会では今日の時代に合わせ、もっとわかりやすいお祈りとして主の祈りだけでなく全ての祈りの言葉がわかりやすく、ただの敬語のような形になった。

なのでプロテスタントの教会がむかしぼくが小さい頃にお祈りしたまま「天にまします我らの父よ〜」の言葉で、何かエモいな、なんて思いながた昨日の日曜礼拝も参加した。

 

やはり自分はこの暗い森の中にひとりぼっちだと知っている。或いは、少なくとも知っていると考える。だから、大声で自分自身に話しかけるのだ。(略)けれどもそこには誰もいない。恐るべき孤独に取り残されたままである。 

 この一文を見たとき、家で祈ってばかりで教会に通わないぼくはいつも、いつだってこの孤独に苦しみ、自分自身への罰を真っ先に考える。しかし実際に教会へ赴き、礼拝堂でこの主の祈りを唱えるとき、ふとぼくは「この祈りは届いているのか」と昨日の礼拝で疑問に思ってしまったぼくに対し、ティーリケはこう続ける。

しかし見よ。イエス・キリストは、今、この生のいかなる外見にもかかわらず、我々はほんとうに「われらの父よ!」ということが許されていると教え、我々にほんとうに答える声があると教えて給う。 

この一文は、ぼくの孤独を取り払った。

『この生のいかなる外見にもかかわらず』、つまりぼくのような人生の歩みを送り、今もなお自己肯定できず孤独の森を彷徨っているぼくであれ、われらの父は、ぼくの声を聞いてくれているのだ。

 

カトリックでは言葉遣いが現代語に統一されたり、またキリスト者の中にはただ唱えるのみで意味を考えたことのない人もいるだろう。

祈りには言葉遣いも時代もない。

意味を知らない限り、祈りの言葉をいう資格はない。ということで読んだのが、このティーリケの本である。

気が向いたら「願わくは〜」編もやります。

かなり心に残った、自分の救いになる本であった。