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文章を書くのを好きになったはじまりははっきりと覚えていて、小学二年のときに作文コンクールで優勝したことがきっかけだ。

物心がついたと思ったら、その時には既に酷い劣等感が僕を支配していて、何をやっても何にもならないような、今考えると、とても子供が感じるとは思えない虚無が常につきまとっていた。家でも学校でも、本当は僕は透明人間なんじゃないだろうかって疑うくらいだった。

だから、自分が書いた原稿用紙たった二枚ばかしの文章が形のある評価をもらったその時、生まれて初めて、生きるために必要な最低限度の自己顕示欲の感覚を理解するに至ってしまい、めちゃくちゃ唐突に僕が生まれた。
生まれてしまったから、仕方がないから、生まれてしまったことを後悔したり謝罪したりしながら、今日まで何かしら、言葉を使って何かをつくって評価を受けることをしてきた。

ある程度の熟語や言いまわしを覚えた頃からは、小説とか詩とかのフィクション作品を作ることもした。きれいな言葉を使って納得のいく一文が書けると、これまた充実感があったし、例えば夢で見た印象的な情景を、言葉のみで如何にして劇的に伝えることができるのかを試すのもとても楽しかった。

高校からは演劇の脚本を書くようになり、併せて演出もやるようになった。文字を読ませるだけではなく実際の動きにする三次元化に、僕自身かなりの勢いでのめり込んでいった。
自分と同じ次元で、自分の空想が現実になっていく様は、凄まじくエモーショナルだ。
この感動は、演劇界に戻らぬ限りはもう二度と、絶対に味わえないと確信を持って言える。

その後、演劇をやめざるを得なくなり、札幌で数年間、入退院を繰り返す生活を送るわけだが、入院していようがおかまいなしに、僕はひたすら何かを書き続けた。全て読み返すのは不可能なくらいの、信じられないような膨大な量だ。
何の足しにもならんメンヘラクソポエムは勿論、ジジイかよとツッコみたくなるような俳句集、クソほどイラつく表現ばかりの村上春樹みたいな小説、仕舞いには呆れたことに、夢野久作坂口安吾の二次創作なんてのもあった。失笑ものばかりだ。

※日本文学の二次創作はそこそこあり、そのどれもが腹を抱えて笑えるようなものばかりである。唯一、太宰治の『畜犬談』を、自分の愛犬をモデルにすり替えて書いたものだけは最後まで読むことができた。

入退院が落ち着いた20代半ば、突如として文芸的な作品を書くことができなくなった。書くことができないというか、厳密には書いても書いても薄っぺらく、厚みの出し方が思いつかない。

だって、嘘なのだ。いくら言葉をたくさん使って遠回しなきれいな表現をしても、所詮それは嘘なのだ。本来の僕にはきれいな気持ちなどないし、遠回しに事を考えたりもしない。感じたこともない自分にない感覚を書くのをやめよっと。そもそも僕の頭の中は、そんなに語彙が豊富でもない。むしろ乏しいくらいだ。

もう文での芸はやりたくないな。これからは本当のことを本当の言葉で書こう。きれいな小説はきれいな心の人が書けばいいし、小難しい熟語ばかりを使った小説は、語彙の豊富な人が書けばいい。そうすれば、それは本当だから、原理はよく分からないがきっと面白くなるんだろう。僕も僕の思ったバカなことだけを、僕の思うバカな言葉だけを使って書こう。

そう考え至って六年程経ったが、その間、作品と呼べる何かを書いた記憶がない。何らかの言葉に埋め尽くされた雑用ノート群ですらも、近年の日付のものは殆ど見当たらない。

語彙もどんどん死んでいって、更に乏しくなって、せいぜい140字程度での起承転結すらままならない、おもしろくもない駄文を好き勝手にネットの海に不法投棄するような日々だ。
評価どころか、誰とも関わりあいになりたくない。文を書けなくても、特に寂しく思うこともない。

やっと真理を見出せたと思ったら、どこからともなくやって来た酷い劣等感が、あっという間に僕を支配してしまった。何をやっても何にもならないような、物心がついていないのかと疑う程の虚無がつきまとう。あらゆる感覚の断絶、シンプルな自我。己の中に形容し難い感覚があったとしても、理解したり訴えたりするための表現をしようともしない。

今の僕は、そうだな。
さしずめ、透明人間といったところだろう。