境界がとても鬱陶しいから

このブログは過去の体験や直近の出来事を自分に正直に、何も考えず、ただ自分の純粋を吐露するツールとして存在している。

つまりどういうことかというと、メンタルヘルス発達障害の観点からの言及(フィルター)は極力避けて、欲求や衝動についてただ素直に書き殴る、自分への告白の場でもある。こういった承認欲求満たしツールは、時代により変われども必要不可欠で生きてきた。ブログだけでなく、Twitterや他のSNSもそうやって、自分の正体をあやふやにして、特定のクラスタにカテゴライズされぬように使ってきた。

例えばTwitterのプロフィール欄で、

ADHD/ASD/LD/AC/双極性障害/摂食障害/反社会性人格障害/醜形恐怖/希死念慮/自傷/精神科暦17年/エロトフォノフィリア/犯罪心理学/依存症/FTx/既婚

と、自己紹介をすることは至極簡単だ。これで人格丸わかりってもんだ。超わかりやすいし、普通は絶対にお近付きになりたくない。

一方、似たようなプロフィールを書いてる奴らが大群で押し寄せてフォローしてきて、
仕切りにコミュニケーションを求めてくるし、ちょっとでも距離が縮まれば理解を示してきたり求めてきたりする。僕はそれが嫌で嫌で仕方がないのだ。

自分で自分を全く理解していないし、自分で自分を超嫌いなのに、あなたと同じですよと近づいてくる人間が一番苦手なのだ。自分みたいな人間が嫌いなんだから、当たり前だ。

僕には自分の存在自体をネタとして扱ってくれるようなクラスタにふわふわ滞在して近からず遠からずの距離を保つのがとても合っている。それはSNSを自分や他人を理解したり、同族意識や同意を求めたりするためのツールとして捉えていないとも言える。

そもそも共感能力欠如のために理解や同意をされたとしても、相手に対してはそれらをすることができないから自ずとこうなったってだけの話なんだけれどさ。

ただ、最近は、発達障害の治療を自分としては結構頑張っているのもあって、その治療過程や二次的な精神障害について、こんなクソみてーな僕の30年間を綴ることができないかと思っている。
やるとしたら別ブログで、冒頭に述べたこのブログの趣旨とはちょっと違うからだ。

歳をとったからなのか、仕事をやめたからなのか、自分でも理由は不明なんだけど、近頃こう思うことが増えた。

もし世界に自分が体験したような、障害や、家庭環境による人生の困難さを抱えた若い人間がいるとするならば、僕を見ろと。

子供の頃から明日死ぬかもと思い続けて、何故か30になっても自分を保ったまま生きている。相変わらず苦しい日々だけど、あの頃よりはマシなんだぜ。

そんなふうに。
一人だろうが何人だろうが、いるのかもわからないけど、若い頃の僕みたいな人間のために、他人のために書く雑記帳を持ちたいなという、チャレンジの話。