高校卒業程度

人として正しくあることは、自信になります。自信を持ち始めると、自己否定をする理由が薄れて、何もできないということはなくなります。さらに健常程度の自己肯定感が芽生えると、例えば思っていることを言葉にできたり、他人の意見に反論できたり、こうあるべきだという更なる理想に恵まれたりもします。

正しさというものは個の主観であり、各々の、無数の物差しが存在します。まずは、それを書き出してみましょう。ポイントは、え、こんな事を本当に自分が思っているかな?というくらいに、多少オーバー気味に書く事です。でも、それでいいのです。「思いつく」ことを「思っている」という形に進化させるのは難しいことではないからです。

 

僕の思う正しさ

・日中に、一生懸命働く。

・休日は犬や夫と、楽しく過ごす。

・隠し事をせず、嘘をつかず、見栄を張らない。

・己の弱さを明確に捉え受け入れる。

・対人に関するモラルは、特に一般常識の範囲を守る。

・全てに対し、被害者意識を捨て、自分や他人を赦す。

 

自分は何者にも惑わされることなく、常に自分であり続けるべきです。そんな自分という存在意義を脅かされる出来事があったときには、相手、出来事に対して具体的な考えを巡らせるのはやめましょう。それは、自分にとってマイナスの事象しか招きません。

そんな出来事はごく瞬間的な突発的な事故のようなもので、それをきっかけにすべての生活に悪影響を及ぼすような考えを持つというのは極めてナンセンス。他人のためにある自分ではありませんから、そういう時こそ、自分という人間が本来どうあって、これからどうなってゆくのか、自分をより確固たる正しい自分にするために、どう行動して行くべきなのかをより深く、具体的に考えるべきです。

 ですが、その時に正しさの物差しが明らかに常識的でなかったり、自分の欲望・理想を本能的に主張したごく直感的なものであった場合、最悪のパターンとなります。本能的に生きるのはとても簡単で、とても難しいことです。行動するにあたっては、本能的であればあるほどアクティブに動けますし、気分がいいでしょう。爽快な生活ですし、何より考えなしに動けるので簡単なのです。

しかし、そういうふうに生きられるのは器用に後処理ができる人、自分の行動の全てに責任を持てる人、もしくはそれらをしてくれる第三者がいる場合に限った話です。それらのことができる人でさえ、欲望の赴くままに生活をすると、必ず破滅、乃至、懲役や閉鎖病棟という道筋になります。

 人間の持つ精神とはそれほど極端に脆いものなのです。ですから闘うべきは外ではなく、いつも内にあるのだと私は確信しています。自己コントロールこそ、とても難しい人間の永遠の課題なのです。

そして何より大切なことは、自分以外の人間も自分とはまた違った正しさの物差しを持っていることを熟知し、その上で 己の言動・思考を完璧にコントロールすることです。

 正しさを己の中で明確化することは、どんな状態からでもスタート出来て、どんな状況にも応用ができます。ビジネス上のコミュニケーションがうまくいかない時。数年間引きこもっていて、外とのつながりを持つきっかけがない時。第三者との不和が発生し、悪循環が止まらない時。そんなときは、自分の内側に目を向けましょう。そして正しさについて吟味しましょう。

 短絡的に「自分のここが悪かった」「自分は被害者だ」「相手のここが悪い」「相手は自分を脅かす」と考えるのは美しい思考の循環ではありません。考えるべきはもっと本質的な、人間の工学・哲学なのです。

人間心理は、各々が自分の心理だけを分析していれば十分で、それ以上できることはありません。自分以外の人間は70億人もいて、その人たちの心理など見透せるはずなどないのです。

なぜなら、七十億通りの正しさがあり、何よりその人たちは、自分ではないからです。もし他人の考えを見透かせるような気分になったときは、直ちに気付き、それを止め、すぐさま水を一気飲みして、冷静になりましょう。

 正しさを書き出して、そのとおりに行動することは、初期の段階では激しい違和感に見舞われます。自分自身に対して「偽善的だ」「以前の自分はこう思っていなかったのに」 などのあらゆる疑いも生まれるでしょう。それらの兆候が現れたときは、既に大成功も同然です。それが変化だからです。違和感に負けることなく、正しさの副作用として受け入れることに注力しましょう。

 自分の正義が他人から見ても正義であり間違いのないものだという確証を得たとき、もう、あらゆる不安や焦燥、自己否定感、劣等感、被害者思考に負けることはなくなるでしょう。強い人間とは、正しい人間のことなのです。

 (二十九歳・高卒)