発狂歴 #1

僕は意外と発狂したことがあまりない。どちらかというと慢性的に少量ずつ発狂しているような感じなので、発作的な、突如の発狂経験は数えるほどである。

その中でも、やはりはじめての発狂が特に印象に残っている(記憶はあまり残っていないのに)ので、ここに紹介したい。

 

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中学二年、十三歳の、夏の終わりころだ。

 

レズビアンの先輩にストーカーされてしまい、学校へは行けない。しかし家にいると、無職の義理父から性虐待を受ける。だからエアー登校をして、母親の仕事が休みの日だけは家にいられる。その頃から自傷癖はあったもののリストカットという概念がなかったので、自分が対象のリョナ妄想で現実以上の刺激を受けることで気を紛らわすという、健全な中学生とは程遠い日常の最中だった。

母親の仕事が休みで、義理父が釣りへ出かけたある日、母親が今後の学校生活についての話をしてきた。心底どうでもいいというか、虐待を放置しておいて、よくそんな些細な問題について話ができるもんだな、と、呆れた気持ちで聞いていたが、自分は義務教育課程の未成年だから、家庭内における決定権はないし、金も持ってない。じゃあいつまでこの生活が続くんだろうか、なんてことを考えてる間にも母親は絶え間なく何かを一生懸命話しているので、自分の感情が追いつかず理由のわからぬ涙が出てきた。しかし母親は、一方的に話すことをやめなかった。

だんだん、脳内というかまぶたの裏側にノイズがかかったようになって、やがて自我のコントロールが不能になった。断片的な記憶では、二歳児のように大声で泣いて、わけの分からないことを叫んでたと思う。傍から見れば、不機嫌なJCが突然、しかもゼロコンマ何秒で野々村議員に人格を奪い取られたぞ!みたいな感じだろう。それで、何故か服を全部脱いで、裸足のまま外に出て、叫びながら、走って逃げた。

家にいたのにどこへ逃げようとしていたのかは不明だが、間もなく追いかけてきた母親に捕まえられて引きずり戻され、裸のまま首根っこをつかまれ、母親はその状態で義理父へ電話をし助けを求めていた。性虐待の犯人に向けてだ。

「アリーが怖い。おかしくなっちゃったの。助けて!」

と、涙ながらにそう言った母を見ながら僕はそのまま気絶して、ハッと起きてみたら精神病院にぶち込まれていた。

でも、そうなっても、僕は母親に性虐待を受けていることは言わなかった。

これが人生初の発狂だ。

叫ばずにいられない、大声で泣かずにはいられない、頭の中のありとあらゆる情報が、物凄い速度で雪崩のように脳内を駆け巡り、理性にかまっていたら死んでしまうかもしれないかのような感覚。人目だとかプライドだとか、そういうものを考える余地がない。そもそも考えるということが出来ない。極めて原始的な、本能に基づいただけの、原理としては超簡単な、条件反射に近い衝動であるのに、自分が自分でなくなるような、バラバラに割れていく自我を見守るしかないあの感覚は、今になってもとても怖い。でも多分、苦しみの臨界点をこえると、誰でもどんな人でも、こんなふうになるんだと思う。

だって僕だって、自分が自分をコントロール出来なくなるなんて思ってもみなかったし、自己認識やキャラクターに対してのプライドはとても高い上に、普段から家族にも本心を言わない性格だったから、それはもう、すごく恥ずかしかった。

 

そうなの。発狂って、めっちゃ恥ずかしい。

企業人は外国人

三年間、自分を殺し続けながら頑張った。本当、とてもエラい。働いてみてわかったことは、企業人とは外国人であるということだ。

自分も最大限合わせる努力をしたし、本意でない発言もたくさんした。自分の気持ちや意見を述べるときなんかは百パーセント嘘だ。英語の苦手な人が、何を話しているかわからない外国人に対し、ことごとく「Yes,OK!Yeah,Yeah!」と答えているかような感覚だった。

無論、僕は発達障害であるから、まったく空気の読めない言動も多々していただろうとは思うし、上司はかなり大変だったと思う。初めの頃は案の定いじめのようなものも存在したが、そういうことが起きた時は、黙って我慢できるタイプではないので、真正面からぶつかっていった。

そうしているうちに、なんか不思議だし経歴もよくワカんないけどそれっぽい、なんとなく仕事のできそうな人っぽい、そんな感じのキャラが定着した。それで僕自身も、そういうふうにならなくてはいけないと、やや強迫観念めいた気持ちになっていき、虚構の自分へのプライドすら出てくる始末だった。

時が経てば経つほど本来の自分とのギャップは大きくなっていったが、元々大したアイデンティティなどは持ち合わせていないので「本来の自分」とかいうゴミはそのままポイっと捨ててしまえば良いと思っていた。そうしたらギャップに苦しむこともなくなる。

今年の四月初頭、業績悪化に伴い、オフィスの縮小工事が行われた。これ自体に対しては然程気に留めてはいなかったのだが、予想外の事態が起きてしまった。

週末に縮小工事が行われ、翌月曜の出勤日。

いつも通りに出勤して、自分のデスクについたが、何か違和感を感じた。

うるさい。

声も、誰かがキーボードを叩く音も、電話の向こう側の声すらうるさい。先週までとは、オフィスの大きさ以外変わらないはずだ。それなのになぜ。

「もしもし、お世話になっております。高田です」

「その件ですね。詳細を打ち合わせたいと思うのですが」

「伊藤さん!これ」

僕以外の世界が、急激に僕の世界に侵食したきたようだった。仕事どころではないくらいの激しい頭痛と、何とも言えぬ、焦燥に似た感覚が全身を覆う。ここで僕は、高校の頃に教室で同じような症状に見舞われ、当時のカウンセラーの松尾氏に相談した際に言われたことを思い出した。

発達障害を持つ人の中には、光や音に極端に敏感な人がいる。例えば音楽をやる人ならばそれがメリットにもなるけれど、当然デメリットの方が多いよね。

確かこんなことを言っていた。空間が縮小されたことで、様々な音の反響が過敏に聴覚を通じて脳を揺らしているんだろう。

それで僕は納得して、上司に許可を取った上で、イヤホンをして仕事をすることになった。カナル型のイヤホンで完璧に外部からの音を遮断し、できるだけ作業に没頭した。しかし、当たり前だが、そこはオフィスである。当然、クライアントから電話はかかってくるし、上司や同僚が仕事の打ち合わせを持ちかけてくる。

そうすると今度は、音楽の途中で割って入ってこられることに大変なストレスを感じてしまう。もうどうしようもなく、肩を叩かれて呼ばれても無視してしまったり、不機嫌に応答してしまう。

段々と絶望していく僕を、谷さんという一番尊敬していた上司が毎日慰めてくれた。

「酒飲みに行こう、奢る。だって私の方が稼いでるからさ(笑)」と気丈に振る舞って、終電まで僕の話を聞いたり、面白い話をしたりもしてくれた。

しかし、日に日に症状は悪化していき、朝起きるだけで酷い頭痛が襲った。その頭痛がどれくらいのものかというと、めまいや吐き気も伴い、ロキソニンを服用して何とかバスに乗り込んでも、バスが揺れるたびにバットで頭を殴られた時のような衝撃が走る。

無事オフィスへ入っても、まともに話せる状態ではなく、度々オフィスの外へ出てしまう上に顔色も悪いため、周囲に多大な心配をかけてしまう。

全てが悪循環していってストレスは消えることなく、オフィスの縮小工事から二週間を過ぎた頃には、出勤すら出来なくなってしまった。

谷さんが外回りついでに毎回僕を気遣い、わざわざ家の近くまでやってきて、今後の話などをしてくれた。選択肢としては休業か退職というのが既に見えてはいたが、正直オフィスの拡大工事でもしない限りは復帰できる見込みはない。

 

まさか、こんな事で社会人生活が終わるとは思ってもみなかったので、結構落ち込んだ。しかし退職が決まると、今まで軽いノリでポイポイ捨ててきた本来の自分のようなものが徐々に戻ってくる感覚があった。それで僕は、またブログをしたりツイッターをしたりしている。

金銭面では確かに、今は非常に厳しいのだが、ありがたいことに谷さんが外注として僕を使ってくれたり、ライターとしての仕事が絶えずあったりしてくれるので、安定すれば生活は何とかなりそうな感じだ。

完全に本来の自分を取り戻して、三年を振り返り思うことは、兎角、企業人は外国人であるという一点だ。自分にも出来そうな気がしたが、結果的には無理だった。理解しきれないルールやマナーやモラルも非常に多い。なので、長い間、企業組織で働く人々に対しての非常なる尊敬が生まれた。

 

けれど、結果として企業人にはなれなかったが、社会人になることはできたんじゃないだろうか。組織に属すことは難しいが、終始自分だけの責任であれば、仕事ができるんじゃないだろうか。そういう、割と前向きな気持ちで退職したと思うと、何の未練も後悔もなく、経験としてのオフィス勤めであったというふうに捉えられる。

 

そして今日はこれから、その外国人達に、出社拒否後に初めて会うことになる。外注のデザイナーとして契約させてもらったから、案件の打ち合わせだ。合わせる顔がないといえばその通りだ。

 

家を出る時間が迫る。僕はこのブログをパチパチ打ちながら、果たして飄々とした顔つきでオフィスに入っていいものなのか、何となく悩んでいる。

高校卒業程度

人として正しくあることは、自信になります。自信を持ち始めると、自己否定をする理由が薄れて、何もできないということはなくなります。さらに健常程度の自己肯定感が芽生えると、例えば思っていることを言葉にできたり、他人の意見に反論できたり、こうあるべきだという更なる理想に恵まれたりもします。

正しさというものは個の主観であり、各々の、無数の物差しが存在します。まずは、それを書き出してみましょう。ポイントは、え、こんな事を本当に自分が思っているかな?というくらいに、多少オーバー気味に書く事です。でも、それでいいのです。「思いつく」ことを「思っている」という形に進化させるのは難しいことではないからです。

 

僕の思う正しさ

・日中に、一生懸命働く。

・休日は犬や夫と、楽しく過ごす。

・隠し事をせず、嘘をつかず、見栄を張らない。

・己の弱さを明確に捉え受け入れる。

・対人に関するモラルは、特に一般常識の範囲を守る。

・全てに対し、被害者意識を捨て、自分や他人を赦す。

 

自分は何者にも惑わされることなく、常に自分であり続けるべきです。そんな自分という存在意義を脅かされる出来事があったときには、相手、出来事に対して具体的な考えを巡らせるのはやめましょう。それは、自分にとってマイナスの事象しか招きません。

そんな出来事はごく瞬間的な突発的な事故のようなもので、それをきっかけにすべての生活に悪影響を及ぼすような考えを持つというのは極めてナンセンス。他人のためにある自分ではありませんから、そういう時こそ、自分という人間が本来どうあって、これからどうなってゆくのか、自分をより確固たる正しい自分にするために、どう行動して行くべきなのかをより深く、具体的に考えるべきです。

 ですが、その時に正しさの物差しが明らかに常識的でなかったり、自分の欲望・理想を本能的に主張したごく直感的なものであった場合、最悪のパターンとなります。本能的に生きるのはとても簡単で、とても難しいことです。行動するにあたっては、本能的であればあるほどアクティブに動けますし、気分がいいでしょう。爽快な生活ですし、何より考えなしに動けるので簡単なのです。

しかし、そういうふうに生きられるのは器用に後処理ができる人、自分の行動の全てに責任を持てる人、もしくはそれらをしてくれる第三者がいる場合に限った話です。それらのことができる人でさえ、欲望の赴くままに生活をすると、必ず破滅、乃至、懲役や閉鎖病棟という道筋になります。

 人間の持つ精神とはそれほど極端に脆いものなのです。ですから闘うべきは外ではなく、いつも内にあるのだと私は確信しています。自己コントロールこそ、とても難しい人間の永遠の課題なのです。

そして何より大切なことは、自分以外の人間も自分とはまた違った正しさの物差しを持っていることを熟知し、その上で 己の言動・思考を完璧にコントロールすることです。

 正しさを己の中で明確化することは、どんな状態からでもスタート出来て、どんな状況にも応用ができます。ビジネス上のコミュニケーションがうまくいかない時。数年間引きこもっていて、外とのつながりを持つきっかけがない時。第三者との不和が発生し、悪循環が止まらない時。そんなときは、自分の内側に目を向けましょう。そして正しさについて吟味しましょう。

 短絡的に「自分のここが悪かった」「自分は被害者だ」「相手のここが悪い」「相手は自分を脅かす」と考えるのは美しい思考の循環ではありません。考えるべきはもっと本質的な、人間の工学・哲学なのです。

人間心理は、各々が自分の心理だけを分析していれば十分で、それ以上できることはありません。自分以外の人間は70億人もいて、その人たちの心理など見透せるはずなどないのです。

なぜなら、七十億通りの正しさがあり、何よりその人たちは、自分ではないからです。もし他人の考えを見透かせるような気分になったときは、直ちに気付き、それを止め、すぐさま水を一気飲みして、冷静になりましょう。

 正しさを書き出して、そのとおりに行動することは、初期の段階では激しい違和感に見舞われます。自分自身に対して「偽善的だ」「以前の自分はこう思っていなかったのに」 などのあらゆる疑いも生まれるでしょう。それらの兆候が現れたときは、既に大成功も同然です。それが変化だからです。違和感に負けることなく、正しさの副作用として受け入れることに注力しましょう。

 自分の正義が他人から見ても正義であり間違いのないものだという確証を得たとき、もう、あらゆる不安や焦燥、自己否定感、劣等感、被害者思考に負けることはなくなるでしょう。強い人間とは、正しい人間のことなのです。

 (二十九歳・高卒)

 

ポルシェと家族だけが存在する世界

ハロワから帰りのバス停まで歩く

寒くも暑くもない ぬるい外気にまみれて

金のことを考えながら 歩く

 

通りがかりのガソリンスタンドから

ビッカビカの 真っ赤なポルシェが出てくる

その窓からは ギラギラしたバブルババアが

イカした顔をのぞかせる

 

それを見た家族がはしゃいで

妖怪でもみたかような けたたましい声で

ポルシェだ!真っ赤なポルシェだ!

と、叫ぶ

 

百恵ちゃん世代にはたまらないらしいな

ポルシェのせいで透明人間になったぼくは

横断歩道のちょうど真ん中あたりで

家族とすれ違った

 

 

バブルババアは あのクソ目立つポルシェに乗って 

一体どこへ向かったんだろう

ギャーギャーうるさい家族たちは 仲良く歩いて

一体どこへ向かったんだろう

 

ぼくは一人 路線バスに乗って

また金のことを考えながら

いそいそ帰る

 

平成二十年から先日までのこと

じゅげむ→はてブロに引っ越し。なので、ここ十年ほどの出来事をなるべく簡潔にまとめた。クソみたいな経歴を綴ると、クソそのものになった。我慢しながら読んでください。

 
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二十歳の夏、自分にはこれしかないと思っていた劇団や映画を、突然に投げ捨てて札幌にやってきた。いや、逃げてきた。定期公演も間近、チケットもだいぶ売った後のことだ。

 

その時の僕は寝る間も惜しんで、年中無休でお芝居のことを考えていた。というか、考えざるを得ない状況で、それは自分がその劇団の代表で、脚本、演出、舞台装置、衣装、役者、そして制作や広告まで全てを担っていたからだ。人間不信であったから、誰かに頼ることができなかった。

朝七時から夕方の五時までアルバイト、夜六時から劇団の稽古。夜九時から個別稽古と制作ミーティング。深夜に帰宅して脚本の修正と広告の作成。三時に就寝して六時に起きる。そんな毎日だった。

もちろん好きでやっていたわけで、苦しいとかやめたいとか、そんなことは思ったこともなかった。ただただ繰り返す毎日の中で蓄積されていく疲労や細かなストレスが、結果的に心身ともに蝕むこととなり、ついに僕は大学進学を蹴ってまで選んだ道を、全て捨てて逃げる決意をしたのであった。

 

逃げ場所に札幌という場所を選んだのには理由があって、まず、小学生の頃まで住んでいた場所だということ。両親の離婚で生き別れになった父がいる場所だということ。両親共に北海道の出身なので、頼れる親戚がいるのではという期待があったためだ。

しかし、そんな突拍子もない甘えた計画がうまくいくはずもなく、親戚の家を転々としたり時には野宿をしたり半ばホームレスのような状態で、考えることといえば放り出してきた公演がどうなったかとか、チケットの払い戻しは誰がやったんだとか、日が経つにつれ罪悪感のようなものがかなり急速に分裂していき、結局、完全に心身喪失した僕は服毒自殺という道を選んだ。

 

閉鎖病棟への入院やオーバードーズなんてのは十四歳くらいから何度も繰り返してはいたんだけど、明確な死の希望を描いて自死を図ったのは二十歳のこれが初めてだった、と、思う。もちろん、今こうして、この世に滞在しながらブログを書けているのは、その自殺が未遂に終わったためだ。

約九〇〇錠の服薬(眠剤向精神薬抗うつ剤・カフェ剤・咳止め等)で七日間の意識不明ののちに蘇生したと、後から転院した先の精神病院の医者が言っていた。この出来事ははっきり言って、今でもあらゆる面で事実を疑っていて、でも話すと長いのでまた別記事で。

 

身寄りのない僕はその後三年ほど、服毒・首吊り・飛び降り等でとにかく死ぬ努力をしまくった。が、とことん運が悪く、その度にアンビリバボー級の奇跡が起きてしまい、ことごとく失敗に終わった。最終的に自分だけが読む遺書が溜まっていく。何かあれば閉鎖病棟に出たり入ったりの暮らしで、刑務所か地獄か、それ以下のような暮らしを送った。

そんな生活について考えることもあったが、自分は生まれついてのカトリック信者であるのに教えに背くことをあえてやってきて、だからこれは当然の報いだろうと思っていたし、なんなら一生このまま罪を償い続ける生活でいいや、とも思っていた。

どんな毎日かだったなんて断片的にしか記憶はないが、寝る前には必ずマリア様ごめんなさい、キリスト者としてあなたのように模範的な生き方ができなくてごめんなさい、許すことはできなくとも、どうか見捨てないでくださいと祈っていたのは覚えている。

人生を諦めて、死ぬこともなくて、誰かに救われることもなければ、影響を与えることもない。人間っぽい生き物がひとつとしていない場所で、ただ一日中、祈るか、過去に囚われるか、何かを書くだけの、身体をまるで必要としない何かの概念と化していた。

 

二十三歳、希死念慮の危惧がなくなったとして退院した。僕は一人暮らしをしたが、その孤独の空間が恐怖ですぐに発狂してしまい、毎日すすきのへ出かけた。出かけて何をするわけでもないんだけれど、人がいると安心した。メイド喫茶へ行ったり、焼き鳥食べたり、道端でヤンジャン読んだりしながら、まあ、大体は酒を飲んでいた。 

そこら辺で出会った男性と、引っ越して同棲することになった。しばらくはアルバイトをしていたが、恋人との結婚願望を機に、本気で就職活動を始めることにした。 

しかし、お芝居以外で何も努力してこなかった挙句に、閉鎖病棟を家代わりにしていたツケが回ってきて妖怪スキルゼロマンと化していたので、ハロワ職員の勧めもあり職業訓練校でウェブデザインを学ぶことにした。学生の頃に独学でやっていたこともあり、何種か資格も取って、よしいけるぞ〜と意気込んで就職した先が、先月までデザイナーとして勤務していた会社だ。ちなみに前述の男性とは四年半後の平成二十八年九月に籍を入れた。

 

良い上司と同僚に恵まれ、社会経験も積ませてもらって、紆余曲折ありながらも順風満帆に物事が運んでいるかのような・・・まるで自分が普通の、一般的な人間になれたかのような錯覚に陥ったが、就職して四年目、二十九歳になった僕は会社を辞めるという選択をした。